いしいしんじ論、完成。

 ここ半年間の研究課題だった論文をやっと仕上げることができました。トピックは作家のいしいしんじと、現代における彼の作品の意味について。
 英文タイトルは、The Grammar to Connect with The World: Shinji Ishii and His Stories
(世界とつながる文法:いしいんしんじと物語)
 日本語タイトルは、おかえりなさい:いしいしんじと「回帰」する物語たち、です。

 去年の夏ごろから考え始めて、やっと形になりました。社会的・学問的には全く役に立つ内容ではないのですが、自分にとって大切な内容をつめこみました。自分としては言いたいことを伝えた感触はあるのですが、結局のところ、いしいさんが作品で伝えたかったことを代弁しただけのような気がします。
 いしいしんじの小説って、現代を描いていないのに、なぜか現代につながる不思議な感触があって、「それはどうしてだろう? どうして内容が現代とつながるんだろう?」と思ったのが論のスタートポイント。東浩紀が『動物化するポストモダン』で述べていたポストモダンの理解を「補助線」に使って、いしい作品と現代との関係を論じてみました
 バラバラなものを、いしいさんは「物語」を通じて再びつなげようとしている。「つながり」を回復させようとしている。それが、一体感を感じにくい現代では重要になるはず。というのが、中心メッセージです。
 『文藝 特集いしいしんじ』(河出書房新社)や石川忠司の『現代小説のレッスン』(講談社新書)くらいしか、いしいさんの小説を論として取り扱ったものがなかったので、自分で色んなところから材料を集めて、論を作ってゆきました。
 あとは繰り返し、繰り返し、いしいさんの作品を読み返し、自分が書いた文章を読み直してゆく。モヤモヤした考えをメモに書いて再考し、少しずつ深めてゆきました。(「繰り返し自分が書いたものを読んで考える」というのは、丸谷才一さんの『思考のレッスン』から学んだことです。)

 一体、自分はいしいさんの作品のどこに惹かれたのだろうか。それは、いしいさんが「わかりあえない」ことからスタートしていることと関係している。いしいさんが長編小説『ぶらんこ乗り』を書いた当時の心境を次のように語っている。

 世の中のことがわからないということに気づいたのと同時に、人間と人間が完全にわかりあうというのは不可能だ、ということに気づいたんです。「コミュニケーションは不可能だ」というのが、多分、僕が小説を書いていくうえでの一番のテーマになったんです。
 ――「わかりあえない」「不可能」とは、なんだか寂しいですね。(インタビュアーの言葉――引用者注)
 ところが、「不可能だ」と腹の底から一番わかっているヤツほど、相手に手を深く差し伸べようとしたり、相手のことばにじっと耳を傾けようとしたり、相手の目にじっと焦点を合わせようと最後まで努力するんだと思うんです。(略)コミュニケーションが不可能というのが、そこまでネガティブなことなのかというと、僕はそうは思っていないんです。(略)わかりあえないから仕方がない、と放り出すのではなく、それだからこそ相手をわかろうとしたり、それができなくて悲しいと思うことが大切なんだと思うんです。(『活字倶楽部 30号(2003年夏)』61−2頁)

 「わかりあえない」、「コミュニケーションは不可能だ」。それでもわかろうと努力したり、それが叶わなくて悲しいと思うことが大事なのだと、いしいさんは語る。断絶の前で立ち止まるのではなく、その奥をじっと見つめる。悲しさをおぼえながらも、相手に耳を澄まして、手を伸ばすこと。いしいさんが「わかりあえない」ことを前提として作品を書いていることは、現代を生きる読み手にとって、大きな意味を持っているように思われる。

 いしいさんの小説は、「ぼくたちはつながっていない、ぼくたちはわかりあえない、だからさびしい」と終わるのではなく、「ぼくたちはつながっていなくて、バラバラだ。だからこそ、つながっていると実感できる瞬間がかけがえのないものになる」ことを伝えてくれる。その「さびしさを抱える姿勢」が読み手の胸を強く打つのだと思う。