梅田望夫×水村美苗の対談をヨムヨム(1)

『新潮 2009年1月号』(ひとかげ様の指摘によって、『文學界』ではないことが判明しました。)で梅田望夫水村美苗の対談を読んでみたので、その感想を書いてみようと思う。現在、雑誌が手元にないため、ページ数がわからなくなっている部分はあとで、足します。
 一度、アメリカに行ったあと、「日本語に帰ってきた」二人の話は非常に興味深かった。こちらの対談を読んでから『日本語が亡びるとき』を読めば、水村がどうしてこういう内容の本を書いたのか、ということがよくわかる。
 この対談のキーワードは「日本語に帰ってくる/来ない」と「パブリックな精神」だと自分は思った。
 水村がその著書『日本語が亡びるとき』のなかで危惧していたのは、英語が〈普遍語〉として機能し、英語圏に叡智がどんどん集積されてゆくような現代(英語の世紀)では、優秀な頭脳を持つ日本人たちは日本語の世界を出て、「帰ってこなくなる」のではないか、ということだった。 
 つまり、英語という〈普遍語〉で読み書きを行い、英語で知的生産のサイクルに加わることによって〈叡智を求める人〉たちが日本語の世界から「離れ」てしまう結果、〈書き言葉〉としての日本語が衰退してゆくのではないか。この問題意識が、水村の根底にあった。
 一方、アメリカのシリコンバレーや日本で、世界で活躍したいという人材を見つけ出し、支援を行ってきた梅田も、最近の若い日本人たちがこの先「日本(語)に帰ってこなくなる」のではないかということを、肌で実感している。世界で活躍したい、世界に情報や知見を発信したいと考えている人間にとって、現在のところ、英語というツールは最も魅力的なものの一つになっている。
 個人的に、対談のなかで興味深いと思ったのが、「『ウェブ進化論』後の絶望」というサブタイトルがついている箇所だ。
 ここで梅田は、日本のインターネットがインフラの面ではアメリカに追いつきながらも、なぜコンテンツでは追いつけないのか、『ウェブ進化論』で書いたことが英語圏のネット空間では実現されているのに、なぜ、それが日本のネット空間では実現されていないのか、という問題について語っている(それは日本語と英語圏のネット空間に深く関わり、両方の空間がもたらす恩恵を受けているからこそ、見えてくるものなのだと思う)。
 

英語圏では、インターネットがとんでもなくすばらしいものになっている。単に知が蓄積しているだけでなく、その上での社会貢献の仕組みなどの、様々な分野で、インターネットのもたらす善き面というのが、英語圏では全面的に発達してきている。しかし、日本語圏ではそういうことのほとんどが起きていない。まったくゼロではないにしても、せいぜい局所的にしか起っていないのです。(346頁)

 この差には勿論、英語圏と日本語圏でウェブに関わっている人数が全然違うということもあるが、問題はもっと深いところにあるのではないか。むしろ問題の根は、ネットを使う人たちの意識や精神のあり方(mentality)にあるのではないか、というメッセージを自分は感じた。梅田と水村の二人は、日本における「パブリック」という概念の欠落が英語圏と日本語圏のネット空間を決定的に分けていると指摘している(348−9頁)。

 パブリックな精神を持った知の最高峰の人々は、英語圏でインターネットという道具を本気で駆使しています。(略)(レクチャーなどをyoutubeなどでウェブに載せることをあげて――引用者)英語圏の人々には、それが当たり前、人類のためなんだという意識がある。不思議なのは、営利事業をしている人たちの中にも、どこかそういう認識があって、たとえそれが自分たちの首を絞めることにつながっても、それでもやるというところがあるんです。(略)日本では、ビジネスを崩すことはありえないという理屈が先にある。出版社や新聞社をはじめ、知に関わる人々の中にパブリックな精神という観点からネットの意味を考えて実践している人がいない。(略)新聞社でも出版社でも、プライベートな問題しか意識していないんですよ。パブリックな精神がない。

 人類全体に貢献する。パブリックに向けて、なにかいいこと(something good)を行う。ある程度自分の利益を度外視しても、自分が得た「よいもの」を全体に向けて「お返しする」、「共有する」という強い意識がアメリカを含めた英語圏のネットにはある。ところが、日本のネット空間にはそれが(全体として)欠けている。
梅田の言葉の裏側には絶望だけでなく苛立ちも見える気がする 。(この苛立ちは、2006年に刊行された、茂木健一郎との対談書『フューチャリスト宣言』のなかにも見いだすことができる)そんなときに水村の本に出会ったからこそ、梅田は強く反応したのだと述べる。
 

ところが、インターネット上の内容、いわゆるコンテンツについては、ついにそれが起らないのか、という絶望感を抱き始めていました。ちょうどそんなことを考えるときに、「新潮」で水村さんの論考を拝読したのです。(略)僕が漠然と思っていたことがはっきりと明晰な文章で、全編にわたって書かれていて感動しました。

 この対談を読めばわかるが、水村は、非常に苦しい思いをして『日本語が亡びるとき』を書いた(対談のなかでは、彼女は本を書くのに5年間ほどかかったと述べている。これは筆が速い・遅いということではなく、滅入る気持ちをおさえながら書いたからだ)。「自分としては、こういうことを書くのは非常に辛いし、気が滅入る。けれども伝えなくちゃいけないことがある」。そんな意識のもとで、本が書かれたことを知っておくのは、内容に対する誤解を避ける上でも役に立つと思う。

 さて、「パブリックな精神」に戻って。
 水村の文脈に引きつけて言えば、このパブリックな精神にもとづいて、叡智の蓄積が行われているのが〈普遍語〉として流通している英語の強さなのだろう(また、それが優れた頭脳を吸収してゆくことになる)。
 水村は、これから先、パブリックな精神を持って、日本語でローカルなことを世界に向けて発信することが何よりも重要だと述べる(水村が現在の日本語に対して感じている、「内輪だけで流通すればいい」という認識を批判する理由もここにあるのだろうと僕は考えている)。
 英語という「メガネ」を通しては見えないものを、「グローバルなものに回収しきれない世界の存在」を、日本語というローカルな言語で伝えていくことが、これからの日本語が果たすべき重要なあり方になると水村は述べる。

 グローバリゼーションというけれど、その一方にはグローバリゼーションに回収できないローカルというか個別的なものがある。それは人間が地球のさまざまな土地に住み、さまざまな母語を話している限り、必然的に存在するものですよね。だから、ローカルであることを意識しつつ、そのローカルな環境を生きる運命をどう引き受けるかということを、日本語で書くことでもって人類に向けて示していかなければならない。すべての人が人類にむかって直接書くのを目指す必要はない。あえて言えば、人類という抽象的な対象に向けて書かれたことと、ローカルな人間に向けて書かれたことがちがうのを日本人が日本語で読み書きして示すことが、人類への貢献にもなると思うんです。(略)グローバルなものに回収しきれない世界の存在を訴え続けることこそ、パブリックな行為だと思うんですよ。

 『日本語が亡びるとき』の第二章でも、水村は英語以外の言葉で書くことの意味について、こう述べている。 

我々にも一つ残されたものがあります。我々が英語で書く小説家と比べて絶対に優るところであり、我々の唯一の希望です。
それは、一度この非対称性を意識してしまえば、我々は「言葉」にかんして、常に思考を強いられる運命にあるということにほかなりません。そして、「言葉」にかんして、常に思考するのを強いられる者のみが、〈真実〉が一つではないこと、すなわち、この世には英語でもって理解できる〈真実〉、英語で構築された〈真実〉のほかにも、〈真実〉というものがありうること――それを知るのを、常に強いられるのです。(88頁)

 英語の世紀のなかで、あえてローカルな言語で書くという「ミッション」を持つこと。このミッションを、僕は胸に刻んでおきたいと思っている。