日本語が「亡びる」ってどういうこと?

 現在、ウェブ上で議論を巻き起こしている水村美苗の『日本語が亡びるとき』について書いてみたい。
 この本は、かなり批判を浴びている。仲俣さんのように、水村の物言いや彼女が現代文学に対して抱いている考えに反発する人たちがいることもよく理解できる。
 でも、ディテールや水村の書き方をいったん「よこに置いた」上で、水村がどうしてこういう本を書こうかと思ったのか、何をこの本で伝えようと思ったのかということを考えることも大事なんじゃないかな。そうでないと、本を読むということがつまらなくなってしまう。
 僕は基本的に著者が伝えてくれることを自分の糧にしたいな、と思いながら本を読むので、今回は水村の本が全体としてどんなことを伝えたかったのか、書いてみたいと思いました。もちろん僕の理解も完璧ではないし、ところどころに穴があるけれど、「少なくともこの部分は受け取った」と思う部分について書きました。5800文字くらいあります。
 この本を読む上で肝要なのは水村が定義している「亡び」を理解することなので、僕がこれだけは読んで欲しいと思うのは、パートCの水村が定義している言葉の「亡び」についてです。ここだけ理解してもらえればいいです。あと時間とエネルギーに余裕があれば、Eの言葉の世界のブレインドレインにも目を配って見てください。

A.水村が挙げる、言葉および「言葉の序列」に関して現在起きている、有史以来の二つの大きな異変
1.名も知れぬ「小さな言葉」が急速に滅亡しつつあること(これは『消滅する言 語』という本のなかで言語学者のデイヴィッド・クリスタルが指摘しているように、ある言語の話者/使い手がいなくなった結果、その言語が滅亡してしまうこと。)
 2.世界全域で流通しつつある言葉、つまり〈普遍語〉(universal language)が生まれた。⇒この新しく浮上してきた〈普遍語〉が英語だ。〈普遍語〉とは単純に使用者数が多い言葉ということではなく、その言葉を母語とする言語圏以外の全ての言語圏でも、それが流通している言葉のことだ。(詳しくは本書51ページを)

B.英語の世紀に入ったことの問題点 
 「ほんとうの問題は、英語の世紀に入ったことにある」と水村は言う(239)。「英語の世紀に入った」ことは、何を意味するのか? 水村は次のように述べる。

それは、〈国語〉というものが出現する以前、地球のあちこちを覆っていた、〈普遍語/現地語〉という言葉の二重構造が、ふたたび甦ってきたのを意味する。(239)

 近代に入って、国家(national)の誕生にともなって生まれた〈国語〉(national language)が成立する以前は、〈普遍語〉―〈現地語〉という非対称な言語のヒエラルキーが存在していたと水村は言う。翻訳という行為を通じて、〈普遍語〉と同等の叡智・機能を手に入れたことと、グーテンベルグ印刷機の発明以来、それまで〈現地語〉にしかすぎなかった〈口語俗語〉(vernaculars)が〈出版語〉となって人々に読まれるようになり、〈普遍語〉と同等の〈書き言葉〉の機能を得たことの二つが、〈国語〉の成立に大きく役立っている。
 しかし現在、何が起こっているのか? 英語が〈普遍語〉となり世界中で流通するようになった結果、世界中の〈叡智を求める人〉が英語の〈図書館〉に出入りし始める。彼らがその言葉で〈学問〉という、叡智を生み出すサイクルに参加するようになった結果、一体何が起るのか? それは、〈叡智を求める人〉たちが英語という〈普遍語〉で読み書きをし、学問をするという状況が生まれつつあるということだ。一方、このことは、彼らが〈普遍語〉で生み出される叡智のサイクルのなかに移り住み、〈自分たちの言葉〉である〈国語〉の世界から遠ざかる可能性が出てきたことを意味する。この叡智のサイクルから取り残された結果、他の〈国語〉たちは〈現地語〉へと成り下がるかもしれなくなった。(詳しくはまた後ろで説明します。)
 そこに水村が危惧する、英語以外の言葉の「亡び」の可能性がある。〈国語〉対〈国語〉という構造で英語と他の言語を比べているのではなく、〈普遍語〉対〈現地語〉(local language)という構造が現在、生まれつつある。こういう形で「言葉の序列」の問題を捉えている点で、水村の視点は面白い。
 叡智を蓄積させることが学問の本質であれば、多くの〈叡智を求める人々〉によって吟味され、評価される〈普遍語〉で書くことはもっとも理に適っている。一つの〈国語〉だった英語が〈普遍語〉となり世界中で流通するようになり、〈叡智を求める人〉が〈普遍語〉で読み書きすることは、〈国語〉の時代以前にあった、〈外の言葉〉である〈普遍語〉で読み書きを行うという本来の〈学問〉の在り方が復活してきたことを意味している。と同時に、この事態は、英語以外の言葉が「亡びる」ことを示唆しているのではないだろうか。でも、そもそも、水村の言う言葉の「亡び」って何だろうか?

C.そもそも、言葉が「亡びる」ってどういうこと?
 水村が定義する「亡びる」は少し独特で、この意味がつかめないと、本書の内容全体がわからなくなる(水村さんは一章でさらっと一度しか説明していないので、ここを通りすぎてしまうと、水村さんの伝えたいことが読み取れなくなります)。水村はある言葉の「亡び」を次のように定義している。

私が言う「亡びる」とは言語学者とは別の意味である。それは、ひとつの〈書き言葉〉が、あるとき空を駆けるような高みに達し、高らかに世界をも自分をも謳いあげ、やがてはそのときの記憶さえ失ってしまうほど低いものに成り果ててしまうことにほかならない。ひとつの文明が「亡びる」ように、言葉が「亡びる」ということにほかならない。(52)

水村が危惧している「日本語の亡び」とは、日本語を話す話者がいなくなってしまうことや、日本語そのものが消滅することではなくて、日本語が〈書き言葉〉として力を失い、衰退するということ。ここで水村が〈書き言葉〉と限定していることに注目したい。言語そのものが消滅するわけでもなく、その言葉の使用者がいなくなるわけでもない。こういう意味で「亡び」の定義を限定しているのだから、この本に対して「今後も日本人は日本語を使い続けるよ」「これからも日本語は消滅しないよ」と言って批判するのは、ポイントがずれてしまう気がします。
 第二章のフランス語の凋落に見るように、この「亡び」は日本語だけに限定されず、そのほかの言語にも起きうる。読売新聞での本書の紹介やウェブ上の議論でも、この「亡びる」という独特の定義に関しての説明は、あまりない。

D.〈叡智を求める人〉たちはこれから一体何語で読み、何語で書くのか?
 〈書き言葉〉の本質は、「読む」という行為にあると水村は言う。水村は、ある文化に「文字が入る」なかで一番重要なのは、文字そのものがやってきたという事実ではなくて、その文字によって書かれた書物に詰まった叡智を得ることができる点にあると述べる。外から伝来し、〈外の言葉〉で書かれた書物を読めるようになったとき、人はその言葉で書かれた〈図書館〉(=叡智・知識の集積)へとアクセスできるようになった。
〈外の言葉〉で書かれた読むことを通じて「二重言語者たち」(=「自分の〈話し言葉〉とは違う外国語を読める人」106頁)は叡智を得る。
 彼ら二重言語者たちのように〈叡智を求める人〉がその言葉で読んだものなどに対して「書き」始めることによって、「叡智の連鎖」が生まれ、叡智がより多く蓄積されることになる。学問とは、そうした「読まれるべき言葉」、叡智のサイクルを生みだし、まわしてゆくことに深く関わっている。〈普遍語〉が学問の発展と強い関係を持っていたのは、その言葉を用いることでより多くの人が叡智のサイクルに能動的な形で参加できたからだ。
 叡智を蓄積させることが学問の本質であれば、多くの〈叡智を求める人々〉によって吟味され、評価される〈普遍語〉で書くことはもっとも理に適っている。
 英語が〈普遍語〉として浮上しつつある中で、「問題はこの先いったい何語で〈テキスト〉が読み書きされるようになるか」だと水村は述べる(251)。ここではまず「書くこと」について説明したい。
 本書での「書く」という行為、それは自分の声を届かせるということを意味する。伝えることを目的としていれば、より多くの人に伝わる方法を選びとるのは自然である。その際、「言語の選択」も重要になってくる。「普遍的な世界」に積極的に参加しようと思い、そこに生きる人たちに声を届けようとすれば、そこで使われている言葉を選ぶのは、最も理に適っていることになる。ここで水村が書くという行為をどのように捉えているか、理解することが大事になる。

書くという行為は、私たちの目の前にある世界、私たちを取り巻く世界、今、ここにある世界の外へ外へと、私たちの言葉を届かせることです。それは、見知らぬ未来、見知らぬ空間へと、私たちの言葉を届かせ、そうすることによって、遇ったこともなければ、遇うこともないであろう、私たちのほんとうの読者、すなわち、私たちの魂の同胞に、私たちの言葉を共有してもらうようにすることです。唯一、書かれた言葉のみがこの世の諸々の壁――時間、空間、性、人種、年齢、文化、階級などの壁を、やすやすと、しかも完璧に乗り越えることができます。そして、英語で書かれた文学は、すでにもっとも数多く、もっとも頻繁にこの世の壁を乗り越えていっているのです。(84)

 彼女の言うように、書かれた言葉が「諸々の壁」を「やすやすと、しかも完璧に乗り越えることができ」るかはどうかは分からない。だが、伝えたい言葉が文字の形となって、自分とは別の世界・別の時代にいる人々にも「読まれる」ことが、〈書き言葉〉の特徴である。形となって内容が残るために、書かれた叡智が蓄積される。ORALITY AND LITERACY(『声の文化と文字の文化』)を書いたW.J. Ongの考えを借りるならば、文字という「記憶の外部装置」、知識や技術の頭の外へと書き残す道具を得たことによって、人類は大きな変化を迎えることになった。

話し言葉〉は発せられたとたんに、その場で空中にあとかたもなく消えてしまう。それに対して〈書き言葉〉は残る。(略)〈書き言葉〉は写すことができる。それゆえに、どこまでも広がり、どこまでも広がることによって、地球のあちこちでさまざまな言葉を話す人がそれを読むことができる。そして、読んだあとに、その〈書き言葉〉を使って、自分なりの解釈を書き足すこともできる。そうすることによって、人類の叡智が蓄積されつつ広まる。〈書き言葉〉が、このようなものであるがゆえに、長年にわたる人類の叡智が、蓄積されつつ、大きく広く広がっていったのである。(122−3)

さて、英語の世紀のなかで、彼女が危惧している問題は、次のようなものだ。

英語という〈普遍語〉の出現は、ジャーナリストであろうとブロガーであろうと、ものを書こうという人が、〈叡智を求める人〉であればあるほど、〈国語〉で〈テキスト〉を書かなくなっていくのを究極的には意味する。
そしていうまでもなく、〈テキスト〉の最もたるものは文学である。(253)

悪循環がほんとうにはじまるのは、〈叡智を求める人〉が、〈国語〉で書かなくなるときではなく、〈国語〉を読まなくなるときからである。〈叡智を求める人〉ほど〈普遍語〉に惹かれてゆくとすれば、たとえ〈普遍語〉を書けない人でも、〈普遍語〉を読もうとするようになる。(略)〈叡智を求める人〉は、自分が読んでほしい読者に読んでもらえないので、ますます〈国語〉で書こうとは思わなくなる。その結果、〈国語〉で書かれたものはさらにつまらなくなる。当然のこととして、〈叡智を求める人〉はいよいよ〈国語〉で書かれたものを読む気がしなくなる。かくして悪循環がはじまり、〈叡智を求める人〉にとって、英語以外の言葉は、〈読まれるべき言葉〉としての価値を徐々に失っていく。(略)
英語が〈普遍語〉になったことによって、英語以外の〈国語〉は「文学の終わり」を迎える可能性がほんとうにでてきたのである。すなわち、〈叡智を求める人〉が〈国語〉で書かれた〈テキスト〉を真剣に読まなくなる可能性が出てきたのである。それは〈国語〉そのものが、まさに〈現地語〉に成り果てる可能性がでてきたということにほかならない。(254−5)

英語が〈普遍語〉として台頭し、その世界に多くの〈叡智を求める人〉たちが吸収される結果、彼らが〈自分たちの言葉〉で読み書きをすることに価値が見出せなくなることが起きるかもしれない。叡智の蓄積において、英語と他の言語とのギャップがこれまで以上に拡大するかもしれない。この言語の「非対称な関係」の復活を支えるものとして水村はインターネットと、現在ネット上で構築されつつある〈大図書館〉をあげている。

〈大図書館〉に「すべての言語」が入ったからといって、人が〈大図書館〉に入った「すべての言語」を読めるわけではない。多くの人は、たとえ文字を読めたとしても、〈自分たちの言葉〉しか読めない。(略)言葉というものは、読めなければ、まるで意味がない。(略)〈大図書館〉が実現しようと、そこには、こと言葉にかんしては、背の高い言葉の壁で四方が隔てられた、ばらばらの〈図書館〉が存在するだけである。そして、それらの〈図書館〉のほとんどは、その言葉を〈自分たちの言葉〉とする人が出入りするだけなのである。
唯一の例外が、今、人類の歴史がはじまって以来の大きな〈普遍語〉となりつつある英語の〈図書館〉であり、その〈図書館〉だけが、英語を〈外の言葉〉とするもの凄い数の人が出入りする、まったくのレベルを異にする〈図書館〉なのである。(略)
インターネットの時代、〈図書館〉の真の質は、どこで問われるようになるか。高い教育を受けた全世界の人が出入りする英語の〈図書館〉が、内容からいって、この先もっとも充実した図書館になっていく(略)。これからの時代、(略)蓄積だれた〈読まれるべき言葉〉のうち、どの言葉がより〈読まれるべき言葉〉であるかを教えてくれるか、その能力がもっとも問われるようになるのである。
要するに、これからの時代は、〈読まれるべき言葉〉の序列づけの質そのものがもっとも問われるようになるのである。(245−7)


 水村が本書を書いた理由は、こうした状況を読み手と共有することにある。英語だけが例外的に飛びぬけ、世界中に流通し始めた結果、多くの人たちが英語という〈普遍語〉の世界に出入りするようになった。(このことは、2章で述べられている言語間の「普遍と特殊の非対称な関係」がこれまで以上に強化されることを意味する)このなかで、英語以外の言語はどうすれば生き残れるのか? 6章ではそのことが深く掘り下げられ、7章ではそうなりつつある現実を前提とした上で日本が、日本語が衰退しないためにはどうすればいいのか、ということが述べられる。本書を読む意義のひとつは、こうした状況を理解すること、共有することにある。この本について議論するのであれば、こうしたことをしっかりと掴んで上で、生産的な形でしていただきたい。

E.言葉の世界での「ブレインドレイン」 
 「ブレインドレイン」というたとえを使ってみると、水村が指摘している問題を理解する手助けになるかもしれない。彼女は、言葉の世界でかつてない規模の「ブレインドレイン(頭脳流出)」(brain drain)が起こる可能性を示唆しているのではないだろうか。通常の場合、ブレインドレインとは、優れた技術や条件を持つ人たちがより良い環境で働くことができ、より多くのお金を得られる国へと流出してしまうことを意味している。これは現在、発展途上国などで起きている深刻な問題で、国で高等教育を受けた優秀な人材がアメリカやヨーロッパへと流出して戻ってこなくなり、結果としてその人材を生み出した国が、費やした分のリターンを得られないことがある。水村が本書で指摘しているのは、おそらく言語面でのブレインドレインではないだろうか。そんな気がする。
 本書でも、日本語が非西洋のなかではやばやと〈国語〉として発展した理由の一つに、中国から物理的に遠いところにあり、科挙試験などによって、漢文の〈図書館〉に日本の優秀な人材を吸収されなかったことが挙げられている。
 今後、日本で、夏目漱石のように優秀な、優れた知性を持つ人間が生まれたとき、彼はどこへ居場所を求めるのか? 彼が叡智を求めるとしたら、どの言葉の世界に出入りするのがベストなのか? どの言語に〈叡智を求める人〉は吸収されていくのか?

シリコンバレーに身を置き、世界中から優秀な頭脳を持つ人物たちがその地域に集まって熾烈な競争を見てきた梅田望夫さんがこの本に強く反応したのは、梅田さんが自分の実感として、今、世界で何が起きているのかを知っていたからだと思う。